2008年3月14日 (金)

命について考えた日々

 この一週間は、人の命について考えさせられた日々だった。自分の周りの世界が昨日までと違って見える、ということを経験した。つれ合いに重大な病気が見つかり告知を受けた。人が必ず死ぬことは自明の理であるしそれを予知することはできない。だから自らの命がなくなることを意識せずに、未来はズーと続くような気分で生活できるんだろう。

 限りある命を自覚せざるを得ない状況になったとき、考えることはひと様々だろう。最初は混乱して考えをまとめることもできなかったが、数日経って、嘆いてもふさぎ込んでも泣いてもその事実を変えることができないとすれば、その時までどう過ごすのか、を考えることが先ず第一、と自分に言い聞かせている。

 春雷に 目覚めし夫の 告知の日

2007年12月10日 (月)

佐野洋子さんのエッセイから

 絵本作家でエッセイストの佐野洋子さんが、新潮社の読書雑誌「波」に掲載していた「シズコさん」というエッセイが今月最終回だった。24回2年間にわたる連載。

 絵本「100万回生きたねこ」は何回か読んだし、年齢は私より10歳ほど上だが、還暦を迎えた頃のエッセイ「神も仏もありませぬ」は結構面白く自分の問題として読んだものだ。「私にとって六十とはついに来たかどんづまり、人生の山場の尾根まで登って、あとはころがり落ちるばかり死の谷に向かって立っているとしか思えなかった」と後書きにある。この文章を半分はうなずいて半分は否定している私だった。

 さて、エッセイのシズコさんとは彼女の母親、9歳で関東大震災を経験、結婚し北京で生活、終戦後引き上げその間3人の子供を失う・・波乱に満ちた人生の終末は「呆けて」施設に。そこで娘の佐野洋子さんが思い出と共に認知症になった母親を語ったエッセイだ。

 佐野さんは乳ガンの再発が骨に来ている、という。呆けてしまったお母さんの死、介護しているときの様々な思い。自分とは違うが似ているところもある、印象に残ったエッセイだった。

2007年8月31日 (金)

福祉理念・・自身の課題としてとらえる

 ヘルパー講座4日目は、「福祉理念とケアサービスの意義」。日本最初の特別養護老人ホーム(昭和36年開設)「特養浜松十字の園」の平井園長さんの講義だった。企業の営業マンから福祉の世界に入って32年、ここで出会う劇的な死や感動的な死に触れながら、福祉の仕事の理念を教えていただく。

 「福祉」の目標は「お互いに幸せになること」。これがはっきりしていないと仕事が楽しくない。福祉は自分の思い通りにはならない、なぜなら「自分のためではなく」相手のために世話をするのだから。それも「頑固でわがままな人」を相手に。この仕事の中でいろんな人と関わることによって人間らしい人間になってきた、と講師は語る。

 帰ってから風さんに接する自分の気持ちが柔らかくなっていることに気付く。その人が何をして欲しいと思っているのか、それを「思い」「やる」気持ちが少し芽生えてきたか。

 高齢者介護の問題でいやなニュースが多い。事業者の不正、高齢者虐待、お粗末な施設運営、介護職員の離職などなど、これも、日本社会の現状としてよく考えねば。

 

2007年5月 3日 (木)

死んで何を残すか

Dsc00446 Dsc00447 Dsc00448 高校から大学の頃、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」という歌が歌われていた。死んだ男は一人の妻と一人の子どもを、死んだ女はしおれた花と一人の子どもを、そして死んだ子ども、死んだ兵士、死んだ彼ら、と続き、死んだ歴史の残したものは輝く今日とまた来る明日、で終わる。

昨日の葬儀、60歳でなくなった川柳を愛した高校教師は、川柳を通して人の生きる姿を私の心に残した。通夜の席で家族から「○○家の知的ムードにある魅力」という句の短冊を渡された。わが家の雰囲気を詠んでくれていた。

写真は葬儀場に掲げられた故人の写真とともに置かれた川柳。クリックして読んでください。

今日、憲法記念日。大きな犠牲を払った太平洋戦争の残したものは憲法だったのでは、という思いがある。 

2007年5月 1日 (火)

身近な人々の訃報が続く

 今年に入って身近な人の訃報が相次いだ

 実父、義妹の配偶者の弟、妹の義父、義妹の夫など血縁の人々

 博物館時代や教員時代の先輩など仕事上親しかった人々

 加えて隣保の人  そういう年まわりなのだろうか

 仕事をしていたときは、ご本人と直接的な面識がなくても、仕事上のお付き合いで葬儀に出ることもあったのだが、この間のような親しい人たちとのお別れは、何とも言葉にできないほど悲しい。とくにまだまだやりたいこと、やれることがたくさんあっただろうに、と思われる年齢の方々の訃報は、一層悲しい。そんな思いの5月の出発。

2007年3月12日 (月)

四半世紀の長さを実感

 25年以上前、いっしょに仕事をした先輩が亡くなり、今日名古屋で葬儀があり列席した。享年67歳、考古学分野一筋と喪主のあいさつにあった。読経の間、ずっと写真を見ながら、故人の生前の思い出を頭の中に浮かべていた。そういえば、出張で宇都宮へ来たといって、東武の駅前で待ち合わせて飲んだこともあったな、など少しずつ思い出していた。

 葬儀場でかつての職場仲間と四半世紀ぶりに顔をあわせた。何人かの人は分からなかった。私が名乗るとはっと思い出したような顔をされる方もあった。自分としては変わっていないと思っていても、四半世紀というのはかなり長い時間なんだ、と実感した次第。

2007年3月 8日 (木)

老いることを自分の課題として

 いろいろ高齢者対象のボランティアをしてきて、分からないことがある。人は寝たきりになり人の世話になって生きることをどうとらえたらいいのか、ということである。私は今、介護者の立場、世話をする義母がいる。いずれ自分がそうなるかもしれない。「そうならないようにピンピンころり、でいきたい」とか「そうなるのはいやだよなー」という声がちまたに反乱している。でも、それでいいのだろうか。

 一生の終わりをそんなふうにとらえていていいのか、いや、いいはずないじゃないか、と頭の中は堂々巡り、昔聴いたことのある「姥捨て山」の話を思い出す。

 そうではない、人間の最後についての考え、自分なりに解答を見つけ出さねば・・・。

 上野千鶴子「老いる準備」(学陽書房)を読んでいる。

2007年2月16日 (金)

「先輩」の早すぎる死

 「先輩」という言葉はあまりピタッと来ないが、同僚、仲間、友人というのも一層そぐわないのでこの言葉を使う。今日、かつての職場から連絡があった、H氏の訃報、64歳。「どうしちゃったの?早すぎるじゃない。浜松に来てもらってパンジーの話をしたかったのに」と涙ながらに葬儀場にあてて弔電を打つ。いっしょに仕事をしたのは6年間だが、強烈な個性で印象が深く、また、退職後は私の職場にたくさんのパンジーを育てて運んできてくださった。

 60歳を過ぎれば、こうした別れがこれからも続くんだろうな、という思いが湧いてくる。もちろん自分自身がそうなることも含めて。だからこそ今を、と改めて思う。

 姫の夕方の散歩中、ちょっと待ってね、と2カ所で呼び止められ、手作りのお赤飯とパイをいただく。人のつながりのあたたかさを感じつつ、悲しい思いをかみしめている

2007年1月20日 (土)

一族郎党集まる

 岐阜県恵那、私の在所(ざいしょ:生まれ故郷)での父の葬儀に行ってきた。父:9人兄弟、母:4人姉妹、その間に生まれた6人姉妹(私は5番目)に関わる一族郎党が大集合、いとこ、「すじかいいとこ」、「はとこ」、姪や甥の結婚相手とその子どもたち。18歳で故郷を離れたので会ったことのない人たちも多い。あっちこっちで自己紹介やあいさつがあり、交わす一言二言ですぐ近しい気持ちになるのは不思議だ。数え白寿、数日前まで会話し自宅で眠るように他界した父が、今生きている人たちを集わせ語らせているような気がした。

 明治末に生まれ16年間の小学校教員生活後、終戦の年に農業を継ぎ、農地改革によって残された「一町歩」の土地を自作して家族を養ってきた。30代での転職、「慣れない百姓仕事だから下手でいつも周りから遅れて作業しているが、一生懸命やってできるようにしなくては」と語っていたと、古希を迎えた教え子が弔辞で述べておられた。毎日毎日田畑に出かけて働いていた父の姿と重なり、気持ちは半世紀タイムスリップした感じだった。声を荒げて叱られたことは一度もない(と思う)。人の死は悲しいが、生きている人をこんなふうに穏やかな気持ちにさせることもあるのだ、と思ったことだ。それはとりもなおさず、その人の生き方、死ぬ時期、死に方によるものだろう。

2006年11月 6日 (月)

死について考える

 新聞や週刊誌には近年死亡した人々の記録が記事となっている。朝日新聞「惜別」、週刊新潮「墓碑銘」、文藝春秋「蓋棺録」などはよく読み、感じるところある時は切り抜いて日記に貼り付ける。この数年では、網野善彦、安達瞳子、藤田康雄、杉浦日向子、中野孝次、中島らも、河原崎長一郎などの記録が日記に貼られている。これは、いずれおとずれる自分の死に対する準備のようなものである。あわせて介護している風さんの行く末の見届けの心構えなのかもしれない。死は人の終着駅だから一生懸命生きている時にも、「自分がどんなふうに死んでいくか」を、時々でいいから想像してみるのもいいのではないか、と思っている。遠藤周作「かなり、うまく、生きた」(知恵の森文庫)読了、「自分がいつ、どこで死ぬか」の章は、本音が書かれていてすーっと読めた。秋の夜長、読書の秋、と言っているうちに明日は立冬

2006年9月12日 (火)

読書の秋 その2

 吉村昭「私の好きな悪い癖」(講談社文庫)を読む。2回目。1度目は「咳をしても一人」という句を作った尾崎放哉についての小説があり、そのことについて講演した記録が載っていたのでぱらぱらと斜め読みをした。「私の旅は資料調査で、観光の要素は全くない」「私にとって最も気持ちが休まるのは書斎」「(原稿の)締め切り日を守らなかったことは一度もない」「万年筆で文字を記す」などの文から、ずいぶん真面目で堅い小説家だ、としか思わなかった。その人が7月31日に死去し、妻の津村節子が「お別れ会」で、自ら死を選んだことを明らかにしたことから、本棚にあったこの本を再度取り出して読んでみた。

 著者の「死に方」を知ってから読み直してみると、その文章が、1回目とは違い、この作家の「尊厳死」に直結した形で頭の中に入ってくる気がした。病名は膵臓ガンだが、「お見舞いで関係者に迷惑がかかる」と公表していなかったことも、この小説家らしい。2度3度と同じ本を読んでも違う感想が出てくる。読書のおもしろさだと思った。

2006年6月20日 (火)

ふるさと

 遠州に来たこともあって、風さんの介護を姉に頼み、今日は岐阜県の恵那(山椒の実のふるさと)へ行ってきた。97歳の父がいる。姉が自宅で介護している。少し認知症のきらいはあるが、曲がった腰を支えながら家の周りを散歩していた。「97歳になれば何をしてもいい」といっていたがその通り。ただ、その時点では、やれることがずいぶん制限されてはいるが。

 自宅に戻って風さんに聞いてみる。「自分の死をどうとらえているか」。「老いの果てが死だよ」との答え。何か禅問答のようであるが、自身の死をどうとらえるか、もう少し考えてみよう。それにしても、高校卒業までを過ごした「ふるさと」、山、川、方言、すべてのことが実にいい。そこに住み続けられなかった故にそう感ずるのかもしれないが。